よもぎ日記

ゲームや読書が好きなインドア派。平凡な日常ネタばかりになると思いますが、インターネットの片隅でこっそり生きていくつもりです。

読書する理由が「焦燥感に駆られて」だった頃がある。

よもぎです。

 

わたしは子どもの頃から本を読むのが好きで、それは今でも全く変わっていません。とはいえ「読書家」とは程遠い所にいる、ただの「読書が好きな人」です。しかしわたしの周囲にはあまり本を読まない人が多いため、その人たちから見ると「活字中毒」「本の虫」の部類に入っているらしいです。

 

それとはちょっと違うんだけどなあと思いつつも、めんどくさいので訂正はしていません笑

 

その日によって読み進めるページ数は違えど、最近はほぼ毎日何かを読んでいます。1ページだけ読んでそれっきりの日もあれば、1冊を一気読みする日もあります。読みたいものを読める時に好きなペースで、が、わたしの基本的な読書スタイルです。昔も今も。

 

自分が興味を持ったものを、楽しんだり学んだりしながら読む。そういう読書の仕方だったのに、一時期、物凄い焦燥感に駆られて、目についたものを片っ端から読みまくっていた時期がありました。

 

読まないと、わたしの中から「ことば」が消えてしまう

 

そんな焦りと恐怖に追われて、とにかく何でもいいから読まなきゃ…読まなきゃ…!と必死でした。その恐怖たるやそれまで味わったことのない感情で、本を読む=言葉を自分に取り込む作業、になってしまいました。そこに娯楽や学びは一切ありませんでした。

 

少しでも読まないでいると、自分の体からどんどん知っている言葉が消えてなくなってしまう、そうなる前に言葉を、文章を、読んで感じて頭にいれて…!と。今思えば明らかにメンタルがイカれてるんですが当時は全く気付きませんでした。

 

そんな時期があったことを最近ふと思い出し、あれはいつの頃だったっけ…と考えたら、子供がとても小さい頃、ワンオペ育児に明け暮れていた日々の出来事でした。

 

おそらく子供は1~2歳だったと思います。一日中子供と二人で過ごし、幼児としか話さないので会話で使う単語も簡単で幼稚なものばかり。その頃のわたしは家事と育児で追い詰められていました。幼児向けではなく、大人の言葉を使って話がしたい、という気持ちがとても強かった。でも、出来なかった…。疲れ果て友人に連絡を取る気力もない、夫は無関心。そこですがりついたのが本だったのです。

 

本を開くと、そこにはわたしの求めている「大人の言葉」がたくさん並んでいました。わたしは本と会話をするような気持ちで何冊も何冊も読みました。本はわたしに「大人の言葉」で語ってくれる、幼児の言葉ではなく!

 

次第に「大人の言葉」をインプットしなければ自分の中から言葉が消えてしまう(もしくは言葉を忘れてしまう)ような感覚に陥るようになりました。このままだと幼児の言葉しか話せなくなってしまいそうで、それが怖くて怖くて必死に本を読みました。

 

読まなきゃ!言葉が、わたしの中から言葉が消えてしまう!もっと読まなきゃ!読まなきゃ!

 

その焦り方は異様でした。この「言葉を失いたくない」という一心だけでひたすら読んでいました。子供が遊びに夢中になっていたり昼寝をしている隙に一行でも多く読もうとしていました。

 

今思えば完全におかしい人です。しかし、わたしが昔から本が好きだということを夫は知っていたので、見た感じでは不自然なところはなかったのだと思います。そしてわたしは自分を襲う焦燥感について誰にも話していませんでした。誰かに相談すべき事案だとは全く思っていなかったのです、明らかにおかしいのに。

 

その状態がどのくらい続いたのかは覚えていません。気が付くと、焦りも恐怖も消えていました。恐らく子供が少し成長し、幼児ではなくなった頃あたりからなのでしょう。

 

お陰様で今は楽しい読書生活を送っています。本を読むたびに知らない事柄に出会い自分の無知さ加減や勉強不足を痛感していますが、それが次の本へと繋がり自分の世界を少しずつ広げていく、という楽しい読み方ができています。読まないとわたしの中から言葉が消えてしまう、という恐怖が襲ってくることはありません。

 

あの焦燥感に襲われていた間、わたしは「読書」はできていなかったでしょう。ただ「文を目で追っていた」だけに過ぎません。しかしあの頃手にした数々の本は、確実にわたしを助けてくれていました。本だけが、わたしの支えだったのかもしれません。あのまま本を手にすることもせず、ただ言葉の消失に怯える日々を送っていたとしたら、わたしは完全に壊れてしまったかもしれません。